はじめまして。私は2人の子どもを持つシングルマザーです。
私は、離婚後すぐに数千万円からの借金の通知がやってくるとは知らずに、当時7歳と9歳の2人の子どもを連れてシングルマザーになりました。
マイナスからのスタート。 言うなれば先が見えないどん底です。一体どこにあの力があったのか、常に頭の中は借金の返済のことでいっぱいでした。
しかし、結論から言えば、私と子どもたちはこの絶望的な状況を乗り越え、今、2人とも大学を卒業し、社会人となり、結婚しています。
この記事では、「諦めなければ明るい未来はきっとある」を信念に、私が莫大な借金を返済しながら、子どもたちを大学へ導いた全記録を公開します。
法律を頼った借金解決術、日本政策金融公庫や母子父子寡婦福祉資金のリアルな活用法、そして子どもたちが選んだ**「新聞奨学生」**という道。
今、お金の不安で進学を諦めかけているあなたへ。 ぜひこの実体験を読んで、一緒に希望を見つけてください。
第1章:【絶望の始まり】学費以前に立ちはだかった莫大な借金と、 マイナスからの再建
莫大な借金の通知と、シングルマザーの再スタート
1.私が子どもたち二人(当時7歳と9歳)を連れてシングルマザーとして再スタートを切ったとき、私のスタートラインはゼロではありませんでした。途方もないマイナスからの始まりでした。
まず、夫が働かない期間に、生活費を補うために私のクレジットカードで借り入れた借金があり、既に数百万円という単位になっていました。
しかし、真の絶望は離婚後に訪れました。私は家のローンの保証人になっていたため、私宛に数千万円に及ぶ莫大な借金の一括返済通知が届いたのです。
学費を貯めるどころか、この巨額の借金を抱えてどう生き抜くか。子どもたちの将来を考えると、目の前が真っ暗になりました。
2. 皮膚科の雑誌で得た「神様からの情報」
この人生のどん底で、私に奇跡的な情報が舞い込んできました。
それは、子どもを皮膚科に連れて行った時、待合室で手に取った雑誌の読者投稿欄に載っていた情報でした。**「カードローンなどの借金を、裁判所の手続きで毎月返済できる額に分割できる」**というものです。(※正確には債務整理という手続きです)
私はこの情報に藁をも掴む思いで、すぐに裁判所へ相談に赴きました。そして、この情報をもとに自力で手続きを進め、まずは数百万円のカードローン債務について、毎月の返済額をコントロール下に置くことができました。
3. 数千万円の壁を突破した「奇跡のつながり」
しかし、数千万円に及ぶ保証人としての借金がまだ残っています。この途方もない額は、私一人ではどうにもなりませんでした。
そこで私は、以前パートで働いていた事務所に出入りしていた借金問題を得意とする弁護士さんを奇跡的に思い出し、藁をもつかむ思いで連絡しました。
弁護士さんの助けで、この数千万円の借金は〇〇百万円という額まで解決に漕ぎつけることができました。しかし、この解決金を支払う〇〇百万円を捻出することが、また大きな壁として立ちはだかりました。
このとき、私を助けてくれたのは、父の信用です。地域の祭りの活動で信頼が厚かった父のおかげで、**JA(農協)**から私の名前で融資を受けることができ、なんとか借金を解決することができました。
私はこのJAからの借金を、介護士の夜勤という過酷な仕事でがむしゃらに働き、完済しました。
4. 第1章の教訓:必ず専門家を頼ること
私の再出発は、莫大な借金というマイナスからの経済的再建が先でした。
この経験から読者の皆さんに強く伝えたいのは、**「お金の悩みは一人で抱え込まず、必ず専門家を頼るべき」**ということです。
借金問題は、弁護士や裁判所など法律の専門家に頼る。
融資(借金返済のためのお金)は、JAや銀行といった公的な金融機関を選ぶ。
こうして、地獄のような借金問題を乗り越えた私に、次は**「子どもたちの進学費用」**という、避けて通れない大きな壁が立ちはだかりました。
第2章:【最重要制度】母子父子寡婦福祉資金貸付金を「親として借りる」全手順
1.国の教育ローン断念から「最後の砦」へ
学費の壁に直面し、まず頼ろうとした**日本政策金融公庫(国の教育ローン)**では、残念ながら「就業期間が短い」などの理由で融資を断られました。
この時の失望感は計り知れません。私は諦めず、次に県の母子家庭支援課に相談に行きましたが、「県には支援金制度がない」と言われ、思わず「進学したい子どもに支援はないのですか」と訴えてしまいました。
ここで職員の方が教えてくれたのが、地元の**「市の健康福祉部 子ども支援課 子ども支援担当」**という窓口でした。
この窓口こそが、学費の壁に直面するひとり親家庭の**「最後の砦」**でした。
2. 「母子父子寡婦福祉資金」の申請手続き
市役所の窓口で相談したところ、私たちは**「母子父子寡婦福祉資金貸付金」**という制度を紹介されました。この制度は、無利子または超低金利で借りられる、ひとり親家庭にとって最も優遇された公的支援制度です。
私が申請したのは、娘の県立短大の入学金にあたる**「就学支度資金」です。金額は約30万円**。このお金があれば、娘の進路を確保することができます。
窓口では、以下の様な書類を求められました。
銀行通帳(資産状況の確認)
源泉徴収票(所得状況の確認)
子どもの進学先の書類
担当者の方は、公庫で断られた経緯や、私たちの苦しい状況を親身になって聞いてくれ、丁寧に手続きを案内してくれました。
3. 公庫の失敗後に得られた「安堵」
日本政策金融公庫で断られた後だったため、この資金の借り入れが決定したときの安堵感は今でも忘れられません。これで娘の進学の道が閉ざされずに済んだのです。
この制度の借り入れが決定したことで、「これで下の子の時も、早めに動けば道は開ける」という、大きな希望と教訓を得ることができました。
4. 第2章の教訓:諦めず「市」の窓口を頼る
私の体験から、読者の皆さんに最も強く伝えたい教訓は、以下の2点です。
諦めないこと: 国の教育ローン(公庫)がダメでも、必ず「母子父子寡婦福祉資金」の窓口へ行くべきです。
窓口は「市」が本命: 県ではなく、地元の「市」の福祉課など(名称は自治体で異なる)が、具体的な支援制度の窓口になっていることが多いです。まずは地元の市役所にある**「子育て支援課」や「福祉課」**に相談しましょう。
第3章:国の教育ローン「日本政策金融公庫」の審査は担当者で結果が変わる!?
1. 娘の進学時:若手担当者に一蹴された失敗談
国の教育ローン(日本政策金融公庫)に初めて申請に行ったのは、娘の進学時でした。対応してくれたのは、頼り無さげな印象の若い男性担当者です。
私は、通帳や源泉徴収票など、必要な書類は揃えて行きましたが、父の介護を機に転職したばかりで就業期間が1年未満という不安定な状況がありました。加えて、申請額は200万円近い高額な入学金でした。
私は娘を進学させたいという切実な気持ちを精一杯伝えましたが、担当者はたんたんと「今回はご希望に添えません」と一言。具体的な理由の説明もなく、門前払いのような対応でした。国の支援だと期待していただけに、この時の失望は大きかったです。
2. 息子の進学時:親身な担当者による成功体験
娘の時の失敗から2年後、私はあまり期待せずに、息子の進学のために再び公庫の窓口へ向かいました。
この時対応してくれたのは、中年の女性担当者でした。彼女は、娘の時に断られた悔しい経緯や、息子の新聞奨学生という特殊な進路を親身になって聞いてくれました。
私の勤務年数は3年目に突入し、安定性は増していましたが、申請したのは学費ではなく、引っ越し費用、生活必需品、家具寝具などのための50万円です。
ここで女性担当者は顔を近づけ、非常に重要な助言をくれました。
「名目は教育資金なので学費と書いてください」
借り入れの目的を教育資金に合わせるための具体的なアドバイスでした。2年前の男性とは比べ物にならない対応で、「この人は私の味方になってくれた」と心から安心しました。その結果、私は無事に50万円の融資を受けることができました。
3. 第3章の教訓:諦めず、事情を正直に話す勇気
この二度の経験から得た教訓は、公的支援制度の審査は、担当者によって結果が変わる可能性があるということです。
担当者との相性: 審査基準はもちろんありますが、担当者の裁量や共感度によって、書類の書き方や提出時の印象が変わります。
正直さと戦略: 苦しい状況は正直に伝えつつも、担当者に「このお金は必ず子どもの未来に役立つ」と理解してもらえるよう、前向きな進路の決意を伝えることが大切です。
時期と金額の調整: 就業期間の安定(娘の時の1年未満から息子の時は3年)や、申請額(200万円から50万円へ)を調整することも、審査を通りやすくする要因となります。
第4章:【決断と成長】200万円の壁を前に、娘が選んだ「県立短大」という道
1.喜びから絶望へ:合格と200万円の壁
私の二人の子どもたちは、**「勉強を頑張れば、母を助けられる」**と信じて努力し、二人とも高校の特別進学クラスで頑張ってくれました。娘は見事に東京の大学に合格しました。
しかし、送られてきた資料を確認したとき、私は大きな衝撃を受けました。進路の先生からは国立並みの費用と聞いていたにもかかわらず、入学金は私立大学と同等の200万円を超える額だと書いてあったのです。
私はすぐに娘に、「ごめん、うちはこの金額は用意できない」と伝えました。払えない金額を背負うことは、家族を崩壊させかねません。勇気を振り絞り、娘にはっきりと**「諦めるように」**と伝えました。
娘は受験に合格し、東京へ行けると思っていた分、進路が絶たれたことで思考が止まってしまったようでした。
2. 娘の沈黙と、先生の提案
私たち親子3人は、お金がなくても明るく、お笑いが好きな家族でした。しかし、娘に諦めるよう伝えてからの数日間、明るい娘はどこにもいませんでした。ご飯を食べるとすぐに部屋に戻り、家族の間に重い沈黙が流れていました。
私は、どう進めばいいのかわからず、再度、高校の進路の先生に相談に行きました。
先生は、合格した東京の大学と同じ内容を勉強できる県立短大があることを教えてくれました。既に受験は終わっていましたが、2次募集で枠はわずか5名という難関です。この話が、失意の娘にとって前向きに切り替える大きなきっかけになったのだと思います。
3. 「4年制は弟に譲る」娘の決意
そして数日後、口数の少なかった娘が、台所にいる私に近づき、ポツリと告げました。
「4年制は弟に譲る。弟は男やし。」
娘は、2次募集の県立短大へ行くことを決めたと言ってくれました。その顔は、迷いが消え、すっきりした表情になっていました。弟の将来を思い、自らの進路に**「悔しい決断」**をした娘の姿に、私は胸を締め付けられましたが、この決断が、家族が二人分の進学を達成するための大きな一歩となったのです。
4. 諦めがもたらした、娘の大きな成長
娘は、見事に2次募集を突破し、短大へ入学しました。
そして、短大入学後、娘は未経験だった軽音楽部に入部し、エレキギターを習得して部長に任命されました。卒業パーティーではステージでバンド演奏を披露し、勉強面でも短大のパンフレットに学部の紹介文が掲載されるという成果を残しました。
**「弟に4年制大学を譲った」**と決断した娘は、この2年間で心身ともにたくましく成長しました。それは、自分で選んだ道で、自分で居場所を作り、努力して得た自信だったのだと思います。
5. 第4章の教訓:希望は形を変えてやってくる
この経験から学んだのは、**「お金で諦めたとしても、希望は形を変えて、必ず次の大きな成長の機会としてやってくる」**ということです。娘の決断と成長は、私たち家族にとって、かけがえのない宝物となりました。
第5章:息子が選んだ「新聞奨学生」という道:親が知るべき覚悟と支援
1.担任の経験が息子に与えた覚悟
娘が進路変更したことで、次に立ちはだかったのは息子の進学問題でした。息子は姉の悔しい決断を見て、**「親を頼らず、自分で大学に行く」**という覚悟を固めていました。
担任の先生に相談した際、先生はご自身が新聞奨学生の経験者だと教えてくれました。
先生は、学費の立て替えや給与が出る仕組みを具体的に説明しつつ、「夜中に起きて配達し、仮眠を取って大学へ通う」という厳しい生活を正直に伝えました。朝寝坊な息子には無理だと思っていた私とは裏腹に、息子は真剣にうなずいているのです。
担任の**「親を頼らず、4年間やり遂げた」という力強い言葉が、息子の中で「自立して大学へ行く」**という火を灯した瞬間でした。息子はすぐに「僕やる!」と宣言し、保証人を立てて面接に臨むことになりました。
2. 面接での衝撃:「昭和の苦労話」と親の葛藤
息子と二人で支部へ面接に行った際、面接官は自身も奨学生だったという方でした。彼から聞かされたのは、想像を超える厳しい現実でした。
寮は**「4畳半で、こたつ一つ置いて食事してそのまま寝る」**という昭和の話。お風呂、トイレは共同。
起床は夜中の1時半で、広告の折り込みから始まる過酷なスケジュール。
何より、途中で辞めたら立て替えた1年目の学費を保証人が全額支払うという、重い責任です。
面接が終わり、大好きなパスタを目の前にしても、私たちは二人とも静かでした。 私は「今の時代に共同風呂や四畳半はあまりにも厳しい。辞めた方がいい」という否定的な考えしかありませんでしたが、息子は「卒業したら免許を取りに行く」と、すでに心に決めていました。
3. 現実の安堵と、変わらない肉体的な厳しさ
後で担当の方に聞いた話ですが、面接で聞かされた**「昭和の苦労話」は、覚悟を決めて来てくれるかを見極めるために厳しめに話した**初期の環境だったそうです。
実際の寮は、10畳ほどのフローリングで、シャワー・トイレ付き、冷暖房完備の、建物も新しいきれいな寮でした。都心からは離れた場所で、地元に似た景色だったことも、息子にとって幸いでした。
しかし、肉体的な厳しさは変わりません。面接官の言葉が本当だったことがあります。それは、「スニーカーを5足用意してください」という話です。毎日300軒分の配達は、歩いて走って配るため、1年間でスニーカー5足はあっという間にボロボロになるからです。
免許取りたてで転倒したり、苦労は絶えませんでしたが、同じ職場で働くおじさんたちが親切で、スニーカー6足目が必要になった際にはプレゼントしてくれたこともありました。
4. 親子の別れと、悔いの残る4年間
私は、引っ越し準備のために寝袋を持って東京へ行き、息子と一緒に部屋の準備をしました。入学式では、職場の人の後押しもあり、大学の桜の木の下で、他の親子と並んで写真の撮り合いをしたことは、今でも鮮明な思い出です。
**「これからも何度か東京へ息子と観光もできるだろう」**と思っていた私。しかし、夜勤をしていた私は夜勤明けに歩けなくなり、リウマチと診断され、療養生活を余儀なくされました。
悔しさしか残っていません。 息子の大学生活4年間に、私はわずか2回しか東京へ行けませんでした。
息子はお盆や正月には必ず帰省してくれましたが、お正月の帰省は年末の折込が最も多い過酷な配達を終えての帰宅でした。そんな息子を東京へ戻る時は、親として心配で、私は毎回大号泣でした。
5. 第5章の教訓:子の覚悟と親の支援
新聞奨学生は、並大抵な気持ちでは絶対続かない道です。しかし、子の**「親に頼らず自立する」という強い覚悟**が、この困難な道を切り開きました。
親としてできることは、お金をすべて用意することではなく、子の覚悟を信じ、可能な範囲で最高の支援(引っ越し費用、生活用品の準備、そして何より心のサポート)を尽くすことだと学びました。
まとめ:学費の不安を乗り越えて。大切なのは「諦めない姿勢」と「行政を頼る勇気」
私の壮絶な借金からの再建と、子ども二人を進学させた道のりを読んでいただき、本当にありがとうございます。
今、私たちと同じように、学費やお金の不安で進学を諦めかけていると方がいたら、私の体験から得た最も重要な教訓を伝えたいと思います。
それは、**「どんな状況からでも、子どもたちの未来を切り開く道は必ずある」**ということです。
1. 私たち家族が乗り越えた「3つの大きな壁」私たち家族は、以下の3つの決断と行動によって、絶望的なマイナスから逆転することができました。
乗り越えた壁, 具体的な行動, 記事の該当章,
借金問題, 弁護士・裁判所など専門家を頼り、法的に解決した。, 第1章
高額な入学金, 娘が勇気ある決断をし、家族の負担を減らす道を選び、 第4章
短大で大きく成長した。,
授業料, 息子が新聞奨学生という自立の道を自身の覚悟で切り開いた。, 第5章
2.まずあなたが取るべき「最重要の最初の一歩」
親の経済状況に関わらず、子どもに教育を受けさせるための支援制度は、必ず存在します。
私たちが公庫で一度断られながらも道を見つけたように、絶対に諦めないでください。
あなたが今、取るべき最重要の最初の一歩は、地元の市役所へ行くことです。
市役所:健康福祉部、子育て支援課、福祉課など
まずは、母子父子寡婦福祉資金貸付金の窓口で相談してください。
この制度は、公庫で断られた私たちが就学支度資金として借り入れできた、ひとり親家庭にと って最も優遇された支援制度です。
3. 親としてできる最高の支援私は病気で息子の大学生活を近くで支えることができず、今でも 悔いが残っています。
しかし、それでも子どもたちが夢を叶えられたのは、「親に頼らない」と覚悟を決めた子ども の強い意志があったからです。親としてできる最高の支援とは、お金をすべて用意することではなく、子どもの覚悟を信じ、行政や制度の情報を集め、可能な限り環境を整えてあげることです。
あなたの行動が、必ず子どもたちの未来を変えます。
どうぞ、希望を捨てずに、今日から一歩踏み出してみてください。